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一流選手の親はどこが違うのか??? [教育論]

 先日、趣味の(?)本屋さん散策をしていたところ、ビビッと来るようなタイトルの本を見つけてしまった。

一流選手の親はどこが違うのか (新潮新書)

一流選手の親はどこが違うのか (新潮新書)

  • 作者: 杉山 芙沙子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11
  • メディア: 単行本

 まったく、本当に、どこが違うのか?

 知りたい。

 が、内容的には、私には“胡散臭さ”をどうにも感じてしまう内容でありました。

 杉山愛選手は好みのタイプのプレーヤーなので、非常に申し訳なく想うのだが…

 お母さんの考え方には、ちょっと「?」な部分があったかな。

 その、訳は。

 

 胡散臭い、なんて言葉は大変失礼でした。

 「綺麗事」と言った方が良かったかな。

 どうにも、“絵に描いたような成功事例”ばかりがピックアップされているような気がして…

 なんというか、「泥臭い“結果オーライ型成功事例”」についてはまったく触れられていませんでした。

 例えば、私が崇拝する工藤公康投手。

 親父は星一徹張りの頑固おやじで、寒い真冬に中はTシャツ一枚のジャージ上下だけの姿で庭で2時間以上もシャドーピッチングをさせられたと著書で述懐していた。少しでも動きを止めると寒いので、延々とシャドーピッチングをするしかなかったそうである^^;

 本人は、そんな親父のせいで野球が嫌いで嫌いで仕方なかったそうだが、そんな、“理想論”的子育てからすると全く正反対の育て方でも、通算224勝して名球界入りする投手に成長したのだ。

 これを、どう説明なさるのか。それは、工藤公康投手がもともと素晴らしい素質があったからほっといてもプロ野球選手になれたんだとおっしゃるのでありましょうや? それでしたら、石川遼君も、錦織圭選手も宮里藍ちゃんも、家庭教育に関係なく、もともと素晴らしい素質があったから、トップアスリートになれたのではないのかいな、という話にはならないのでしょうか。

 結局、子育て、選手育成指導に、【正解】というものは、無い。

 唯一あるとするならば、その子供子供に合わせた“最適”な指導方法を見つける、という事なのだろう。

 子供が10人いれば、最適な育成法は10通り用意しなければならない。それが、【理想】なのだ。そう、『理想』、なのだ。理想…

 ただそれは、著者の杉山氏自身もこの本の中で、一部認めているような表現もあることにはあった。

 つまり、この本の内容に対して私が問いたいのは、絵に描かれたような理想的な指導方法(具体的なやり方は違っていても、方向性)が、本当に“誰にでも”当てはまるやりかたなのか?という疑問なのであるよ。

 確かに、石川遼選手の家庭教育、宮里藍選手、錦織圭選手のご両親の教育的指導は「理想的」だとは想うが、それでは、その「教育方針」が、そのまま全ての子供達に当てはめられるはずはないのである。

 ウチにも3人の息子がいるが、3人とも同じ家庭環境で育っているハズなのに、不思議なモノで、その考え方には強烈な個性が現れる。これは、いったいどうしてなのか。長男、間の息子、末っ子、などという「家庭内での息子としての立場」というものでも“躾け方”は変えなければならない、のかもしれない。

 

 石川遼選手のお父さんは、遼選手が生まれた時、この子の為ならなんでもしてやろう、という目標を、自分のそれからの人生の行動指針に設定されたそうだ。

 その為に通勤時間が3倍にもなるのに東京郊外に一戸建て庭つきの家を購入し、息子がやりたい、と言ったことはなんでもやらせてやったそうだ。ダンプが運転してみたいと言えば知り合いの運転手に頼みに行き、運転席に座らせてやったりしたという。

 こういうしつけは、自主性を育むには良かったのかもしれない。が、一つ間違えば「わがまま」な性格を助長させかねないのではないのだろうか。それを、遼選手のように「理想的」な性格の青年に成長させたのだから、「理想的」だったといえばそうなのかもしれないが、それは、「遼君自身が生まれつきに備えていた性分」が、もともとそうだったという部分もあるのは間違いない、と想うのだ。

 だから、「そうか、じゃ、うちも石川家と全く同じにやってみよう!」と一念発起、全く同じことを生まれたばかりの長男に施してきたらば、超わがままな嫌な性格人間になっちまった、という可能性も“多いに”ありえるんじゃなかろうか、と想っているのである。

 理想的な教育・しつけをほどこしたつもりが、子どもがいい気になっちゃってわがまま気ままし放題になっちまったら、そこはやはりかなり“厳しい”しつけが必要になってくるはずだ。

 石川遼君のお母さんはかなりしつけに厳しい方で、遼君が言う事をきかないと手を出して叱りつけることもたびたびだったという。お父さんの甘さと、お母さんの厳しさが、理想的にブレンドされていたのかもしれない。が、これは、スパルタオンリーの教育で、子供をプロ野球選手にした工藤投手の親父さんのやり方と同じく、あくまで“結果論”だと想う。

 間違いなく「厳しさ」という部分も、絶対必要なシーンはあるのだ。“虐待”という、非常に嫌な響きの言葉で、怒鳴ったり、罰走を加えたりするスポーツ指導の、“全て”を「完全否定」してしまっても、本当に良いのか、というテーマも、同じようにもっともっと突っ込んで掘り下げて検証する必要があるのではなかろうか、と私は考える。

 保育園か何かの実験で、いたずらをした子供を放置していたグループと、悪さをしたらすぐしっかりと注意し叱ったグループでは、後日、子ども同士で遊んでいる時の「攻撃性」が、注意しなかった方が注意されていた方より百倍以上になっており、非常に危険だった、という研究結果があるそうである(何を基準にして“百倍”とするのかまでは覚えてないけど…)。

 つまり、厳しく叱るべきところは早いうちにしっかりと叱っておかないと、大人になって体が大きくなってから社会に出てしまってからでは間に合わず、とんでもない“事件”を起こしかねない人間になりかねない、という事が言えるのではなかろうか。

 家庭教育上のしつけではないが、スポーツの場面においても、怒鳴る、蹴飛ばす、とんでもないノルマを与えて延々とグラウンドを周回させる…などという、「厳しい“しつけ”」と、指導者が想っているであろう「指導」もある。

 そのような指導法は、確かに必要悪ではある。

 が、それはそれで、根性がつき、どんなピンチにも耐え忍ぶ精神力が養われることも、人は経験則として実感しているわけで、そういう事も確かにあると私も想う。ただ、それに、指導者自身の“資質”として、サディスティックな性格が加味されてしまうと、これが非常にどよんとした汚泥の様なチームの雰囲気を醸し出してしまう。

 私も学生時代に格闘技系の体育会に所属し、それはそれは「花の応援団」のように、まさに漫画の世界の様な規律の厳しい4年間を過ごし、徹底的に上下関係をしこまれた。

 そのせい(おかげ?)で、まぁ、多少のピンチなら「命とられるわけじゃねえし、あの頃(学生時代)に比べたら…」という開き直りができる所は確かにあるのではあるが、そういう「ど根性指導」「根性野球」は“両刃の剣”なのだ。

 一つ間違えば、“ダークサイド”にはまりこみかねないのである。それは、認める。

 私も、前に勤めていた会社などでは上司にはどうしても逆らえず、悪く言えば「イエスマン」になってしまいがちで、目上相手でもフランクに冗談を言い合える仲にけろりとなってしまう他の同期社員と比べると、酒宴でも自分のことを「“自分”は…」などと言ってしまうようにどうしても堅いお付き合いしかできなくなってしまう。これは、人間関係においてはある意味“足枷”になってしまう。

 どこまでが、「厳しい指導」で、どこからが「虐待的イジメ」になってしまうのか。

 そこを“見極める”論争をしつこく“具体的”に展開していかないと、いつまでも“そういう部類の指導者”達は、冷静な自己判断ができず、「虐待」ゾーンに入り込んでしまい、「不幸な野球部員」を産み出し続けることになってしまうのではなかろうか、ということを言いたいのだ。

 厳しい躾けは必要、だが、厳しければ良いというものではない。いくらアマチュアだろうが、ボランティアであろうが、まだまだ義務教育中の子供達を指導しようという人間は、常に自分の指導を自戒しつつ、子供達の表情が暗く曇ったままでいないように努力しなければならない。

 しかし何度でも言うが、甘ければ良いというものでもないのだ。褒めてりゃそれで子供ははいはいと喜んで勝手に成長していくと想ったら大間違いであるはずだ。褒めるところのポイントやタイミングを間違うと、子供達から信頼を失う事間違いなしであろう。選手を褒めてやる指導は、選手たちから信頼を得ているからこそ、効果的なのではないかと想う。

 

 最高の理想は、ほっといても、子どもが自ら活動に目覚め、向上心を持ち己を高めようとしてくれることであるのだが、そんな「誇りたくなるような我が子」をお持ちのご家庭はいったい何%ぐらいの割合で存在するというのか。

 子供に対して「勉強しなさい」と、一回も注意した覚えが無い、というご両親は、どのくらいいらっしゃるのか。

 それは、広い世界である。そんな“理想論”そのまま実現してしまったような超LUCKYなご家庭もあるでありましょう。

 が、それはメジャーなご家庭?

 違うでしょう。子供たちが、ほんの僅かでも自我に目覚め始めた時、親が強制しなくても進んでお手伝いをする良い子に育てなかった、というご家庭は、もう、子供を一流選手にする夢をあきらめなければいけないのか?

 私が言いたいのは、そんな理想的なご家庭の親子関係をほめそやしても、なんの参考にもならないほどに“悩めるご家庭”の方がそれこそ「ごまんと」あるよ、ということだ。

 それに、石川遼君の妹さんも確かプロゴルファーを目指していたと想ったが、活躍している話は全く聴かないし、同じプロゴルファーである宮里藍ちゃんのお兄さん方は、お世辞にもトッププレイヤーとは言えないハズ。同じご家庭で、同じご両親に育てられたわけではないのか?

 ようは全て“結果論” その子供が“生まれつき”に持っていた資質と合致する教育が施せたかどうかなんて、子どもが成長してみないとわからないのである。誰にも通用するパーフェクトな「子育て法則」なんてものは無い。やってみなけりゃわからない。

 たまたま、理想的な息子や娘に育ってくれたお子さんを持つご家庭は、ほっておいても幸せだ。子供が言う事を聴かず、ふてくされてどうしようもなく悩める親がいるご家庭が欲しいのは、ねじれてしまった親子関係の修復方法なのだ。

 ゆがみ始めた進路の修正の仕方がわからないので、困っているのである。

 それなのに、「石川遼君のご家庭の教育が最高よ」「宮里藍選手のお父さんは立派な方よ」と紹介してみたって、今現在やる気の感じられない息子に育ってしまったご家庭のご両親は、ますます絶望感に苛まれるだけの話ではありませんかな? スクナクトモウチハソウダ…

 

 極論すれば、子どもを怒鳴ろうがひっぱたこうが、それでうまくいっている場合は、それが「その時は」良い指導方法であるはずだ。

 ただし、そういう“強制手法”は、ある時躓いてしまう可能性が“非常に”高い。

 子どもには、必ず“反抗期”なるものが発生する。その反抗期の対処の仕方で、子供を更に伸ばせることができるか、それとも、“破綻”してしまうか、分かれ道になるのではなかろうか。

 ある時期が来たら、それまでは親がしてきた「判断し、実行する権利」を、子供自身にバトンタッチしてやらなければならないのでありましょう。いつまでも親がその「権利」に執着してはいけない。でも執着しちゃうんだよなぁ。どうしても、「子供」は「子供に観えてしまう」のでございます。どこかで、想い切らないといけないんだがなぁ。

 かわいい子には、旅をさせろ、とは、昔の人は本当に含蓄のある良い言葉をおっしゃっているものでございます。

 親が教えておかなければいけないことは、「人生って、泳ぎ続けないと、沈んじゃうよ」ということ“だけ”でありましょう。

 働かざる者食うべからず、というのは、おおよその世間一般人にはまぁ、真理である。

 水かきし続けないと、社会の荒波の中で「人生」というものは沈んでしまう。親が教えなければいけないのは、その「泳ぎ続けなければいけないよ」というレベルまでであり、「どこに向かって泳ぐか」までを命令してはならない。それはあくまで子供自身に決定させなければいけない。どんな“島”や“港”があるのか、という事は教えてやってもよかろうが、行き先を指定したらこれは大失敗な子育てになってしまう恐れが大きいのでありましょう。

 

 やるならとことん、てっぺんを目指させる。

 アスリートを志すなら、プロになることが究極の目標になるのだろう。

 「山」は、頂上まで登って初めて“征服した”と言える。

 9合目で挫折して引き返したら、最初から挑戦しなかったのと同じこと。【最後までやりきってこそ、意味がある】というのは真理である。

 ただし、親(私も含めて(-_-;)ゞ)は特に勘違いしやすいと想うのだが、スポーツ選手に取って、「頂上」とは、必ずしも「プロになる」ことだけでは決してないのだ。

 スポーツを極めようと思えば、まぁ、そのスポーツで「飯を食えるようになる」のが最高の結末なんだろうけど、決してプロになれなくても、自分の「限界」まで攻め続けた、という「状況」が、その選手が登ろうとしている山の「頂上」であるはずだ。

 プロになるかならないか、が、頂上なのではない。

 が、ここでもまた更なる“勘違い”を私はしていたと想うのだが、その「山の頂上」まで登ったからと言って、そこから眺める風景が、“間違いなく絶景である”かどうかは保証できないハズだ。

 自分なりの“テッペン”には上り詰めたのであるが、怪我をして大学や社会人から声がかからなくなってしまった、また、勉強がおろそかになっていて、スポーツに見切りをつけて進学希望に切り替えたが時すでに遅く、浪人してしまった、など、周りからみたら決して素晴らしい結末、とはいえない人生になってしまったという選手もおおいはずだが、そんなの、登り始めた頃にはわからないことなのだ、と、今現在では痛切に想うのだ。

 つまり、頂上まで登りきった、「全力を出し切った」からと言って、「全ての人が」「必ず満足のいく」結果を得られるわけではないのだ、ということを言いたいのである。

 その日の天気次第では、頂上まで登れたとしても暴風雨にさらされて何も視えませんでした、ということもある。でも、こればかりは神のみぞ知る、ただの人にはどうしようもできないことなのだ。

 しかし、そこでの心根をどう持つか、は、これは自分自身でどうにでも決めることができることである。

 雲が出ていて絶景は眺められなかったけれども、てっぺんまでは、登った!という自己満足は間違いなく得られる。

 自分でやれるところまではやった。これ以上はどうしようもできなかった。全力を出し切った、という、達成感。

 さすれば、あとは、「人事を尽くし、天命を待つ」だけだ、という心境になれるのではなかろうか。

 そこまでいければ、「自信」がもてるはずだ。

 「自信」とは、“自分”を“信じる”ことができる、ということだろう。

 そうすれば、次の別のステージへ登ろうとする「勇気」も湧いてくるはずだ。

 なのに、“天気が悪くて御来光が拝めなかった”ことを、責めてみても仕方の無い事なのだ。なのに、てっぺんまで登った努力を認めず、自分の力ではどうしようもない「運命」まで、親が厳しく咎めてしまうから、親子関係が破綻してしまうのではなかろうか。

 親が視なければいけないことは、結果はどうあれ、「てっぺん」まで登る努力を本当にしたのか、それとも、まだまだ限界では無いのに、足の痛みや息切れに耐えきれず「あれ以上は無理だよ」と言い訳をしながら引き返してきたのかどうか、ということだけ、である。

 大事なことは、“本当に”追い詰めないこと。自分でできる限りのことをしたのならば、それ以上でだめだったとしても、「別の山(道)があるさ。いつかきっと晴れる日に巡り合うよ」と、笑って肩をポン、と叩いてやり、新しいチャレンジへと送りだしてやることであろう。

 それができずに、親の方がひとつの「山」を、いつまでもあきらめきれずにネチネチと叱り続けるから、子供達は追い詰められていくのだ。

 何度でもいうが、てっぺんまでその子がなんとか登った、と納得できれば、てっぺんから眺める景色がいくら悪天候で何も見えなかったとしても、それは「子供は責められない」という事だ。もしかしたら、それは、登山の仕方、もしくは登る山、歩く道、そして天気の良い「季節」を指導できなかった「親の責任」でもあると言えるのだから。

 だからといって、親自身も、生まれた時からの“しつけの土台作り”失敗してしまったからと言って、自分を責めるのも辞めましょう。それもなんの解決にもならないと想うのです。間違いだ、と気付いた瞬間に、間違いを正す努力を全力ですぐにし始めれば良いのである。それにもしかすると、自分を責めること自体が子供を責めることにもなってしまうかもしれませんし。

 人生、なせばなる、事もあるし、なるようにしかならない、時もあるのである。

 杉山愛選手のお母さんが書いた、「一流選手の親はどこが違うのか」という部類の本を読んで、うわべだけ“理想的なご家庭”の真似をしたって、絶対自分の子供は石川遼君にはならないし、錦織圭選手にもならないし、宮里藍ちゃんにもなるわけがないのである。

 綺麗事だけ述べて、実は「自分の理想論」で子供をジワジワ追い詰めている様なことはなかろうか。スポーツするのは、子ども自身だ。子供が「もう嫌だ」といったなら、それ以上は要求してはなるまい。ただ、じゃあ、何もしなくても良いかと言えば、そんなことはない。スポーツに挫折して、土日ぷらぷらしているなら、当然、勉強で頑張ってもらわなければならないし、家の手伝いはしっかりさせる。炊事洗濯掃除、あらゆることはしっかりとやらせましょう。

 何度でも言うが、人生、働かざる者食うべからず。である。これは真理である。「働く」こと、「努力し続ける」ことが大事なのだと教えなければならないが、どんな“仕事”で「働く」かは、子供本人が決めることである。その「職種」まで、親が決めてやってはならないのだ。親が厳しく教育しなければならないことは、「働かなければならない」ということを教える、ただその一点だけでありましょう。

 さすれば、「不登校」なんて子供は絶対生まれないと想うんだけどなぁ。本当に学校が苦痛で仕方ないのなら、学校を変えてやれば良い。子供達には、いろいろな選択肢があるのだ、という事を気付かせてやらなければならない。

 ただし、ただゲームをしているだけ、アニメビデオを観たり、漫画を読んだりしているだけのチョイスはないのだ、という、最低限の人生訓は、徹底的にしつけてやっておかなければならない。私は、ここだけは絶対に甘くしてはいけない、引いてはいけない部分だと想う。

 人は、一人では生きてはいけないのだ。

 コミュニケーションをはからねばならないということを教えなければならない。

 親より長生きするであろう、子供自身のためにも。


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コメント 1

楽しく生きよう

お立ち寄りいただきさらにはポチッとしていただきありがとうございました。
よろしくお願いいたします。

私も働くことを教えるのが大事だと思います。

by 楽しく生きよう (2012-05-04 16:36) 

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