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奇跡の一本松から、気仙沼大島へ。 [ツーリング]

 東日本大震災。

 仙台生まれと言うか、東北・関東の太平洋沿いご出身の方々には、生涯忘れることのできない出来事でありましょう。

 発生時はもう北関東の海無し県の、しかも山沿い地方のカミさんの実家にマスオさん状態だったので、揺れによる棚からの落下物と風呂場のタイルのひび割れぐらいしか被害は無かったが、私の実母の実家はきれいに全て流されてしまった。福島との県境にある、山元町というところにあった。子供の頃は母に良く連れていかれたものだが、夜になると海から波の音がかすかに聞こえるような砂地の多い庭の家だった。よく、いとこと庭の穴から出てくるカニをつっついて遊んだりすることができたところにあった。

 だから、津波にはひとたまりもなかった。防風林のような林に囲まれた、いとこ達とキャッチボールやサッカーで遊んだ近くの広場も、ぜ~んぶひっくるめてきれいにただの平原になってました。

 震災から一年たって、やっと被災地に足を踏み入れる気持ちになれてから初めて赴いた母の故郷。ナビ上に表示される、家があった筈の地点の道路を、車で行ったり来たりを散々繰り返しても場所が特定できず、あきらめかけた頃、これが最後と、震災以来1年以上たって初めて通り抜け可能になった道路に車を停めて、その道路からちょっと離れた位置まで歩いてみて、やっと、母の実家の庭にあった丸い井戸の先だけが、砂利の合間からはみ出した様にとり残されているのを発見、母の実家だったところの位置がわかったのでした。

 家があった場所にはコンクリートの土台しか残っていなかったが、玄関先に敷かれていた、見覚えのある模様のタイルは残っていて、そこから昔の状態を思いだそうとしてみたが、防風林で見えなかった海なのに、ぽつぽつ集落もあったのに、地球はやっぱり丸いんだぞと、神様から改めて認識させられるように、ところどころにあるガレキの山と、工事車両以外なんの障害物にも邪魔されず水平線まで遥かに見透かせるようになってしまった風景に、ただただ、立ちすくむしかできませんでしたねー…。

 津波、という自然の力の強さが、すごい、とか、恐いとか、そんなありふれた表現であらわせないほど、とにかく想像の域を越えていました。ほんとに。

 くる途中の道路沿いでも、小学校か、中学校の体育館の屋根の上に、ひっかかるようにして漁船が乗っかっていたのです。なにかのアトラクションやテーマパークのオブジェでなく、怪獣映画の特撮でもない、全くリアルなただの風景の中に、ありえない光景があった。

 津波で外壁を突き破られ、鉄骨の柱しか残っていない体育館の屋根の上に、昨日まで誰かが乗っていたはずの漁船が、乗っかっている。車を停め、家族全員、しばらく言葉を失って眺めていました。

 これは、なんなのか。なにが、起こったのか。「理屈」では理解しようと努めてみても、目から入る情報の異常さが、正常だった時の世界の記憶とのギャップを埋めきれないでいたような戸惑った感覚が残っている。

 母の実家に当時一人で住んでいた、母からすると兄嫁に当たるおばさんは、ちょうどディサービスで街中の方に行っていて、助かった。

 助かったとはいえ、デイサービスを含め地元の混乱は想像を絶し、白石市で教師をしていた長男である私のいとこが、自分の母親であるおばさんと避難所で再会できたのは、確か二日か三日近くかかったと言われたはずだ。

 この日でなかったら、いや、デイサービスの時間が午前中だったら、間違いなく命は無かったと、存命中(このおばさんは今年の春に老衰で大往生された)時、私のいとこにあたるその長男から聞いた。

 津波の被害が及んだ地域で、生き残った方々の人生には、そのひとつひとつ全てにドラマがあるのだ。けっして、大げさな比喩では無く。
 

 前回の記事の追記(続きを読む)の部分がなぜか吹っ飛んでしまって、復旧を試みたが何をしても消滅してしまったままで、どうしようもないので記憶を頼りにまた書き直してみた。うわーめんどくせーなー、と思いながらも再び同じルートの話を書き綴っていたら、けっこう忘れていたほっこりエピソードを思いだしたりして、それはそれで面白く感じる経験でした(^^;

 なのに、その書き直した記事までまた消えてしまいまして、少々落ち込んでしまっておりました(いや実はかなり落ち込んでいたのですが…)。

 今までと特に変わったことをした覚えはないのですが、もしかしたら、本州最東端の地、宮古市重茂半島魹ヶ崎で、姉吉キャンプ場から片道1時間かけて到達した本州最東端の碑からの帰り、薄暗くなっていく「自然歩道」の登山中、なにかヘンなものにでもまとわりつかれていたのか…も?? 海をバックの撮った写真になにか、見てはいけないものでも映っていて、そのせいで記事が消えてしまったのでは?!なんてしょーもないことを考え始めてしまったら、なんか怖さが怖さを増長し、マジ怖くなってしまってもうあの時の記事は投稿しないことにしました…

 ありえないですが、それにしても、あの薄暗くなっていく帰りの「自然歩道」の崖っぷちを歩く道は、本当に誰かがついてくるような足音が耳から離れず、真っ暗な駐車場で、ポツンと独り私の帰りを待っていたSR君のエンジンをキックスタートさせるまで、マジマジ恐怖の時間だったのです……もう絶対、夕方から行動するような真似はやめよう………

 

 ということで、前回の記事投稿から日時的にはかなり開いてしまったのだが、私的にはものすごくブログに関わっている時間であったのでした…。

 

 で、今回は、ルートイン宮古から、終点は仙台の独り暮らしのオヤジのアパート、といういつものツーリング最終パターンのご報告になっていくわけだが、しかし、今回のルートは、うーん、ちと、私の中では“重い”部分なのである。

 なんか、手を染めたくないテーマ、で、無意識に立ちすくみ澱んでしまったような気もする。ので、前の記事を書き直したりして時間を稼いでしまったのか。

 しかし、ここを“抜いて”しまうと、例えば、小中高と自分のhistoryを語ってきたのに、予備校生だった部分には全く触れずに大学生時代の話題にワープしてしまうような、そんな後ろめたさが生じてしまうだろう。だから、一度は触れておかなければならないと感じている話でもある。

 それでは、前回の続きから。

 前日、本州最東端の「とどかさき登山(?)」で体力の限界を越えていた私、激しい頭痛で目を覚ました。まさか、脳血管障害?とどきっとしたが、おそらく、脱水症状がまだ収まっていなかったのだろう。帰ってから水分をガブガブと摂取したつもりだったのだが、胃の許容量いっぱいに飲んでも足らなかったのか。考えてみたら、一度もトイレに目を覚まさず、閉め忘れたカーテンから差し込む朝陽で目が覚めるまで熟睡してしまった。うわぁ、何年ぶりだろう、夜中のおトイレしないで朝まで寝れたの!やはりよっぽど脱水してたのだ。重い体を引き摺り起こし、自販機まで行くのも億劫だったので、部屋に備え付けのティーパックでぬるいお茶を飲んだ。

 ルートインを愛用しているのは、朝食のバイキングが充実しているからである。が、この頭痛で食欲出るかな~と心配したけれど、とにかく何か口にしないことには今日動けなくなってしまうと、どこが筋肉痛になってるのかわからないほどそこらじゅう痛い下半身をぎくしゃく操りながら、なんとか朝食会場へと向かう。

 が、チビチビと一口食べるほどに、心配していた頭痛がスッと減っていくのがはっきりわかった。脱水プラス、低血糖だったらしい。糖分を接種したら、すっかり頭痛は治まってしまった。水分と栄養補給は、やはり健康の基本中の基本だなぁと、今頃改めて実感してしまいました。

 考えてみたら、前日の食生活は、朝は菓子パン、昼もそのあまりの菓子パン、で、夕飯は体力を使い果たし、食欲ゼロの状態で、コンビニ弁当(のどごしを考えて、そば定食っぽいやつだったような?)、後はひたすら水分補給しかしていなかった。そら、栄養不足になるのも当然だ。

 バイキングなのをいいことに、サラダやフルーツ系を山盛りモーニング。前の日の飢餓状態を取り返すように鬼のようなおかわりをしてしまった(≧▽≦)

 フロントで、足のマメにはるバンドエイドを数枚貰い、部屋に戻ってシャワーを浴び直し、気分一新、腹も膨れた。よし、今日もいい天気だ。SRで走ろう!

 そしたら、ギアチェンジの時に、スネの筋肉痛がとんでもなく激しいのに今更気付き、シフトアップの度にうめき声を上げながらのスタートとなってしまった…。

 どんだけ限界を越えてしまったのか。皆様も、「本州最東端」に挑戦なさる時は、ウォーキングシューズを準備なさり、水分補給もしっかりと用意されて行かれることをアドバイスさせていただく。ま、時間に余裕を持って行きゃいいだけの話なんだけどね。

 三陸を走る国道45号線は相変わらず、はっ、とするような素敵な海も時折見えるのだが、それが続かない。「おー」と背伸びして眺めようとした途端、山影、そしてトンネル、の、繰り返し。海沿いになれば…と思うと、今度は高い防波堤。津波対策のために、海沿いの漁村とかがある海抜ぎりぎり高さの道路部分は、そびえ立つ様な防波堤に遮られて海が見えない~~。どうせなら防波堤の上に道路を作ってくれたら眺めいいのにな~、とは思ったが、道路とかにすると、またさらに工事費とかが嵩んでしまうのかなぁ。おしいなぁ。残念だなぁ。結局、フラストレーションをためるだけのライディングになってしまいました。

 三陸は、海を愛でたいのなら、走りながら、というシュチュエイションは難しいかと。バイクどこかに停めて、足を使うようになりますねー。

 釜石市も少し気にかけていたんだけど、あっという間に通り過ぎてしまい、あら、とは思ったが、今日のメインは一本松、気仙沼大島、牡鹿半島コバルトライン、てとこだったので、先を急ぐ。天気がいいうち、できれば懐かしきコバルトラインをかっ飛ばしたい。コバルトラインから仙台までは、蔵王エコーラインと並んで、もう、「自分の庭(かつての、だけど…)」のようなもの。どんなに暗くなってもまぁ余裕で仙台までたどり着ける。なんて余裕かましてたのが失敗のもとだったのだが、それはまた後半…

 大船渡市を過ぎ、気仙沼市の一つ手前の街、陸前高田市に入る。陸前高田市と言えば、なんといっても千昌夫様だが、意外と知られていないような気がするが、俳優の村上弘明さんもご出身なのであるぞ。

 けっこうな山道が開けると、すぐに広い平野部が眼に入り、市街地になる。少し走ると、いきなり衝撃的な「災害遺産」が道路沿いに発見できる。

 

 

 
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 5階建てのアパート、ベランダの目隠しが、4階まで全て失われている。正面から見ると、吹き抜けのように向こう側の景色が見えるのである。国道45号線を挟んで海に正面を向けているので、津波が一気に突き抜けたらしい。左側の壁の、4階と5階の境目あたりに黒っぽいプレートが張り付けてあると思うが、拡大するとわかるけれど、そこまで津波が到達したしるしなのだ。いやぁ、高い!

 想像してみていただきたい。4階の部屋の天井、5階の部屋の床の高さまで、ここいらへんはしばらくの間、海の底に沈んでしまったのである。しかも、川のような流れの海の底に。

 この津波に巻き込まれて、助かる気は全く起きない。

 そこから国道45号線をそのまますすんですぐのところに、道の駅高田松原がある。

 駐車場はほぼ満車、駐輪場にもバイクが隙間なく並ぶ。コロナ禍の中、ちょっとレストランには寄る気がしなくなってしまった。この道の駅は、復興記念公園と併設されており、道の駅の施設を抜けて海の方に歩いて行くと非常に開けて綺麗な公園に出る。ところどころに献花台が設けられており、津波の被害にあった家族をお持ちの方が花を手向けにくるのだろう。とにかく、だだっ広い。はるか芝生の彼方に「奇跡の一本松」がうっすら見える。

 

 
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 そしてまた、延々と続くピカピカの防波堤。よほど、津波の教訓が影響しているのが伺える。

 

 
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 振り向けば、道の駅もはるかになってしまった。

 

 
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 奇跡の一本松は、もう塩枯れしてしまって、写真に写っているのはオブジェというのか、モニュメント、だそうなのだが、本物の一本松の型を取って作成されたそうだ。

 

 
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 上の写真が、この奇跡の一本松を津波から守ったとして、セットで未だに保存されている高田松原ユースホステル。

 まぁ、奇跡の一本松について、本物かレプリカかなんぞを云々おっしゃる野暮な方はもういらっしゃらないだろう。とにかく、これは、「忘れてはならない震災の記憶」であるのだ。復興の象徴、生き残る、という強さのシンボル。

 心の中で合掌をし、道の駅高田松原を離れた。

 お近くまで寄られた方は、お寄り下され、なんて差し出がましいセリフは、私は言えないかな。私も、「本当に被災」した人間では無い。津波により、九死に一生を得たような方々に対して、どうしても申し訳ないような感情が、ある。

 

 どうも、モネちゃんの気持ちがなんとなくわかるのである。つまり、一番近い表現を使うとすると、「後ろめたい」のだ。仙台生まれの仙台育ちでありながら、その「時」、全然違う場所で、地震は経験したにしろ命には別条のないエリアでただテレビを眺めていただけだった。地元が、学生時代、バイクで走った海岸線が、津波に呑まれていく、ただただ、唖然と画面をみつめるしかない。

 ただみつめるしかできなかった、とか言ってるくらいなら、ボランティアでもなんでも行けばよかったじゃないか、という方もいるかもしれないが、とにかく、被災地に足を踏み入れるのも気が引けた。かえって、津波地区とは全く関係ない地区の方々のほうが、純粋に「助けに行く」という感覚ですんなり入っていけたのではなかろうか。気が滅入る、という表現に限りなく近い「引け目感」これは、おそらくモネちゃん立場であった地元民なら、みなさん感じていらっしゃるのではなかろうかなぁ。

 あ、だからと言って、俺は感じてないぞ、という方もいらっしゃるのは当然と思いますよ、感じないのは不義理だとか、そんなことを言いたいわけでは無く、ただただ、自分の感情の置き場所の問題なのです。

 その悲惨さはわかる、わかるだけに、自分は経験していない、悲惨さを経験している地元民の目の前に立った時に、どうしても感じてしまう申し訳なさ、引け目。何も悪いことはしていないのはわかっているんだが、いっそ、私も津波に腰ぐらいまでつかっちゃったとか、追いかけられて息も絶え絶えに坂道を駆け上って逃げたんだ、とか、そういう経験談を一緒に語れれば良かった、なんて、誰にも言えないが、実は内心思ったりする。

 「“しょってる”ような口を効くな!あの恐怖がおまえに本当にわかるのか!」と当然言われそうだから、とてもそんなヒロイズムは口には出せるわけもないけれど。だって本当に分かってたら、当然、二度とそんな目には合いたくない、と考えるだろう。

 朝ドラをみていて、なんか帰国子女みたいなマリアンヌなんたらいう名前のキャスターの女の子が、モネちゃんに対して、「なんか重い~」とか言ってたシーンがあったと思うが、確かに他の地区の人なら「なんでその場にいなかったことをそんなに気に病むのさ。別に、さっさと一人だけで逃げたとかじゃないのに」と、いう感覚なんだろうなぁ。だから、このドラマを見ていると、なんか、もやもやとしてなんとなく隠していた部分を、つーんと突かれてしまう感じがするのである。

 最初この朝ドラ、「あまちゃん」の二番煎じの震災お涙頂戴ストーリーかよ、と、やや食傷気味な感触で見始めたのだが、進むにつれ、あの津波震災の、残された人々のリアルな現状を極力描こうとも努力されているのかな、と今は感じている。気候変動とか、ちと盛り過ぎな気がして、収まり付くのかなーなんて余計な心配もしているのだが(パラリンピック関係の話も入れてるし)、長丁場な朝ドラだから、なんとかするのだろう(^^;

 モネちゃんの幼馴染のイケメン君(俺絶対こっちの方がいい男だと思うんだが、この配役だと、そんなに「医者」が良いのか?と思っちゃうじゃないか)のお父さんが、津波にさらわれ行方不明のままの奥さんを忘れられずに酒浸りの状態を送る様を描いているが、おそらく一般的には、「いつまで女々しく奥さんのことを引き摺っているんだ」、という気分の方もいるかもしれない。

 が、かえって、遺体が出てこない、という状況は、本当に辛いはずなのだ。送らなければいけない人が、送れない。まさしく宙ぶらりんのまま、辛さ悲しさだけが延々と続くのである。これは、当事者でなければ、本当の辛さはわからないと想う。2021年3月9日時点での行方不明者数は2,525とあるから、モネちゃんの幼馴染のご家庭のような悲しみの数は、2,525通りあるわけだ。

 私のバイク仲間でもあった友人の友達だが、荒浜の当時の新興住宅地に家があった。

 が、今は消息不明である。友人について行って、その友人の友達の家にも何回か遊びに行ったことがあるのだが、その家があったところは今はまっさらな更地になってしまっている。その友人とは社会人になってからは全く疎遠になってしまったので連絡も取れず、その友人の友達が無事だったのかどうなのかは全くわからない。

 その家の近くを通る道路を仙台からバイクで帰る時走ってみたが、消息がわからない、という状態は、やはり悶々とした、嫌~な気分になってしまう。友達の友達、の間柄でさえこんな感じになってしまうのだから、自分の奥さんとか、お子さんとか、ご家族の方が行方不明という状況は、ほんとーにお辛いだろうなあ、と想像する。なんとか、気持ちの整理をつけていただけるようにと祈るしかできないねー…。

 そんなこんなをつらつらと考えているうち、SRは気仙沼市に入る。

 大島への連絡船の港まで行き、船と海をバックに写真を撮って気仙沼大島は終わりにしようと考えていたのだが、45号線沿いのコンビニの駐車場に停まって、スマホのマップを確認していたら、なんか、大島に渡る道が出来ている?? あれ、橋なんか今、かかっているのか??? 全く、そのような情報を仕入れていなかった私は、マップを何度もガン見で眺めたが、どうしても大島までつながる道ができているようにしか、見えない。

 ので、とにかく行ってみることにした。

 そしたらば

 
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 あらら、なんだこの立派なでかい橋は。朝ドラでもちょい出し紹介されていたが、全く、知らなかった。

 その名も気仙沼大島大橋、かい。名前もでかそう。しかも眺めもいいです。2019年に開通したそうですねぇ。いやはや、連絡船で渡っていたころがノスタルジーですなぁ。

 なんか色々語ってしまったので、ずいぶんと長くなってしまいました。ので、気仙沼大島は次回に。

 再見!

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tai-yama

福島にあった鹿島の一本松は無くなってしまいました・・・
防波堤は利根川のスーパー堤防みたいな感じになっていますね。
三陸道からなら高台なので全体像も見えたりしました。
by tai-yama (2021-09-11 20:30) 

再見ライダー青三

 かえって三陸道の方が眺め良かったんですかね? 次回は絶対、三陸道と決めておりますが、いったい、いつになることやら…
by 再見ライダー青三 (2021-09-11 20:35) 

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