走塁は「メンタルトレーニング」 [走]
盗塁は、勇気である。
とは、良く言われる。
全く、その通りだと思う。
…その訳は…
ファーストまでの全力疾走。
簡単なようで、実は、これが一番難しかったりする。
フェアグラウンドや、ファールライン際どい打球は、ボテボテゴロでも凡フライでも、とにかく何があるか分からないから、一塁までしっかりと走りなさい、と、良く注意をするんだが、これがまぁ、できない。
フライが上がってしまうと、フェアゾーンだというのに、上ったボールを見上げて大きな口をあけて「あぁ~っ」と呻いた後、うつむいて首をかしげるように頭振り振り、そんな余計なモーションを入れてから「あっ」と気付いたようにファーストまでやっと走り始める。
途中で気づいて走り始めるのはまだ救いがあるが、相手の守備選手がグラブに当ててポトリ、としてから「うぉっ!?」っとばかりに慌ててダッシュを始めるような選手は最悪である。しかも、それでギリギリアウトになったら、まー特大のカミナリと説教の嵐になるのは間違いないし、そうなって当然の「ボーンヘッド」なプレイである。
気持ちが入ってない。
なんとしても、塁に出たい、という気持ちが。
野球において、なにより一番大事な「気持ちの持ち方」はなんだ、と問われたら、私は間違いなく「ひとつ先の塁を狙う気持ち」だと答える。逆に言うと、守備面では、“ランナーを絶対に次の塁へ進めない!”という気持ちが大事になる。
三遊間深い位置にゴロ、内野安打になるかどうか、とファーストを全力で駆け抜ける…やった、セーフ、良かったぁ、とホッとしたのも束の間、出塁したというのに、ベンチからは罵声の嵐。
「馬鹿野郎、ボール見ろボール!ファーストはじいてるぞ、二塁行け、二塁~~っ!!」
という声にファールグラウンドへ転がるボールにハッと気付き、慌ててセカンドへ進むもクロスプレイ、で、タッチアウト!とならば、まぁ、ファーストランコーもだが、ランナーも「次の塁を陥れるっていう、気持ちが無いから、そうなるんだよ!」という監督さんの怒鳴り声をベンチ前で直立不動で聞かされるハメになるわけだ。
私は、この時の監督さんの怒りは全く持って正当な指導だと考える。私でもそうする。
さて、盗塁。
これほど、野球というプレイの中で“気の抜けない”ものはなかろう。そして、なにより、「勇気」が必要だ。
塁から離れれば離れるほど、つまり、リードがでかければでかいほど、セカンドベースでセーフになる可能性が増える、だから、できるだけ離れたい、が、離れれば離れるほど、ピッチャーからの牽制球でアウトにされるというリスクを背負う。
先程、ファーストへの全力疾走を怠ったことにより、エラーしてくれてるのにアウトになったら怒鳴られると言ったが、これは“怠慢プレイ”での筆頭怒鳴られプレイであるわけだが、“積極的”になっているとはいえ、これまた、特大のカミナリを頂戴するのがこの「牽制死」というプレイでありましょう。
特に、盗塁を狙わせているわけでもないのに牽制でアウトになることほど、これまたウルトラボーンヘッドなプレイは無い。ノーアウト一塁のチャンスが、ワンアウトランナー無しの、追加点絶望状況に一変してしまう。味方の戦意を喪失させること計り知れず、“流れ”が一気に相手チームへと傾き始めてしまう。
もし、盗塁を“仕掛ける”のであれば、とにかく、「集中力」が大事だ。そして、その集中力を高めるために一番必要なのは、「なんとしても、成功させる!」という硬い意思、闘志。そして、その闘志を高めるために必要なモノ、それが、「勇気」である。
勇気を持って、リードしなければならない。失敗するかも?と想いながらリードなんかしてたら、リード幅が足底幅三足分ぐらいは短くなるだろう。「絶対に、成功させる!」という気持ちで立ち向かわなければならない。
盗塁を成功させるかさせないかの境目のタイムの平均は、3.5秒前後だそうだ。ランナーとしては、なんとしても、スタートを切ってから3.5秒以内にセカンドベースにゴールしていないといけない。
まさに、“生死を分ける”「3.5秒」なのだ。その、足幅二足分の差が、アウトになるか、セーフになるかの境目になるのだ。
きっと、3.5秒以内で到達したのにアウトになってしまったならば、これはもう素直に相手バッテリーを称賛するしかないのである。
何度でも言うが、盗塁に必要なのは、「勇気」
「勇気」より、「集中力」だろう、と言われる方がいるかもしれないが、絶対、次の塁を奪う、盗塁を成功させる!という強い意志があれば、当然、集中力など“勝手に”高まっているものだろう。
良く、集中しろ、集中が大事だ、なんて指導してしまうが、実は、「集中する」という状態は、「集中しなくちゃ!」なんて考えているうちは絶対に集中できていないものなのだ。というか、集中できていないから、集中しよう、なんて考えてしまう訳だ。
本当の集中とは、そのプレイ自体にどっぷりとはまって、さて、どうしよう、どうしてやろう、こうしてみようか、と、ただ“それだけ”を考えているのが、「集中している」状態であるハズだ。
「集中しよう!」なんて考えさせるぐらいなら、私は、「勝とう!」とか、盗塁を成功させよう、アウトローいっぱいへ、ストレートを決めてやろう! インコースにボールが来たら、迷わず振り切ってやろう!などと考えている方がよほど集中できているのだろうと想っているので、なるべく、集中しろ!という表現は使わないようにしている。…でも、あんまりダラダラしてる時は言っちゃうんだけどね……「集中しろ!バカモノッ!!」ってさ。
「盗塁」を成功させるカギは、「絶対に成功してやる!」と強く想う事だ。
そういう「意思力」が、盗塁成功率のUPにつながる。
ところが、スタート直前の競走馬の様に入れ込んでも、これまたちょっとばかり、相手バッテリーに見え見えに警戒されてちとまずい。バッターをヘルプする為に、一球ぐらいウェストさせようとして“いきり立った”様子をみせるのは、「テクニック」であり、「冷静」でないといけない。
それに、絶対成功させるぞおぉ~っ、と意気込むと、かえって力んで身体が硬くなり、スタート時に一瞬立ちすくんでしまうようになってしまう。それよりも、“クール”に、ピッチャーの癖を盗む努力をしてみたほうが良い。もちろん、最初は全然わからないし、逆を突かれて牽制死、なんてこともあるかもしれないが、私は、癖を盗んでみようとした、積極的な失敗なら許してやるべきだと想う。おそらく、牽制の時はこういう動きをするようだから、よし、今度その動きをしたら思い切ってスタートを切ってみよう! としたのだが、実は勘違いで、逆を突かれてしまった、としたら、これは私は仕方ないと想うのだ。
そういうところは、ランナーだった選手にその意思の在り方をよくよく確認しながら注意してやらないと、ただ失敗をガミガミ怒るだけでは萎縮してしまい、二度とチャレンジしようとしなくなり、せっかく速い脚を持っているというのに宝の持ち腐れにしてしまう、という危険性があるはずだ。
だから、牽制死してしまったとはいえ、どのような「気持ち」でアウトになってしまったのかどうかは、しっかりと選手を視てあげて、「叱る」か「肯定する」かを決めてやらないといけないだろう。ここいらへんが、子供に対する指導で一番難しいのだ。
学童野球の指導者時代、息子も含め、いろいろと子供達には“文句”をつけてきたけれど、しかし、実際、盗塁を含めて、「走塁」は難しい。
ノーサインで盗塁、成功すれば「好走塁」失敗すれば「暴走」
ライトオーバー、一か八かでサードを狙う、が、これ以上ない中継プレーで、間一髪、ベース手前5センチ前でタッチアウト!
ちょっとでも中継がズレてくれればセーフになるプレイ。私は、こういう場合、相手チームがファインプレイをして「クロスプレイ」でのアウトであれば、子供達を怒ってはいけないと想うのだ。
実のところ、“勇気”と“無謀”は紙一重である。
成否を分けるのはホンの一瞬だ。
とかく野球というスポーツは常に“結果論”で語られがちであるが、私は最近、野球というスポーツは「結果の予想がつけにくい」ので、結果論でしか語れない人が多いのだ、という事に気がついた。
しかし、だからこそ“おもしろいスポーツなのだ”という風に思えるようになった。
9回表まで5-0で勝っていて、後アウト一つ取ればゲームセット!優勝だ、という時に、プレッシャーがかかり、フォアボール、エラー、イレギュラーヒット、まさかの満塁ホームランで逆転サヨナラ、というドラマが、実際に十分起こり得るスポーツなのだ。
予断だが、その点、同じ元プロ野球選手の解説者からさえも感心されるほど、プレイ前からズバズバと“結末”を言い当てる野村克也氏は、やはりものすごい方なのだ。きっと。
まぁ、とにかく、“一般的な”選手の心構えとしては、人の評価に一喜一憂せず、“攻める”気持ちを忘れずに持ち続けてプレイする、しかないのでしょうねぇ(^_^;)ゞ
結論として、盗塁に成功するために必要な努力とは、まずは大前提として絶対に成功させてやる、という「勇気」を持つ事。しかしそのまた前に大大前提として必要なのは、成功する可能性のある最低限の脚の速さを持つ事は当然であります。
次にくるのが、「リードの仕方」「ベースへの戻り方」「ピッチャーの癖の盗み方」「スタートの切り方」「スライディングの仕方」という順番で、技術的な鍛錬をしていくことになるのでしょう。
なんか、盗塁、という世界は、新事業に挑戦する若き経営者の心構えに良く似ている様な気がしますなぁ。
勇気と無謀は紙一重。
様々な事にチャレンジしてみる。やってみないと、“成功”するか、“失敗”するか、なんて、わかりませんからねぇ。
成功したら、褒められる。失敗したら、非難される。
ただ、「それだけ」のことである。
…とはいえ…
心技体、という言葉もあるが、いくら“心”を強く保とうとしても、いつもいつも盗塁失敗ばかりでは、心も折れる。
“心”を支えるために、“技”と“体”があるのである。
ということで、しばらくシリーズで、走るための「技」と「体」について考察していこうと想っております。
人に読まれていると想いながらブログ書いてると、けっこう、自分の考えがまとまっていくんですよねー。そこで、自分でも意外なイマジネーションが生まれ、そこからまた新たな発想を得られたりするのであります。不思議なもんですね。
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