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がむしゃらな努力は、無駄??? [メンタル]

 マイケル・ジャクソンさんの死も衝撃的でありましたが、ホイットニー・ヒューストンさんの今回の訃報もかなりビックリしてしまいましたな~(T_T)

 最近出てこなかったからあまり聴かなかったけど、昔は良くカーステレオでその歌声を流しながらドライブしておりました…。

 私と同い年でありました。早すぎまする。合掌。

 

 ところで。

 最近、また再読しているのであるが、「心の野球」という本の中で、尊敬する著者の、元ジャイアンツのエースナンバー桑田真澄氏は

 「がむしゃらな努力は、無駄である」と断言されている。

心の野球―超効率的努力のススメ

心の野球―超効率的努力のススメ

  • 作者: 桑田 真澄
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 単行本

 私は、桑田本の中ではこれが一番好きで、もう、かれこれ5回目になるのかな、読み返すのは。

 ただ、ちとばかり引っかかる部分があるもので、今回記事にしてみようと思ったのである。

 

 確かに、がむしゃらな努力をしても、「成長量」は、かけた時間ほどの成果が得られないかもしれない。

 しかし、「がむしゃらな努力」は必要なくとも、「無茶苦茶な特訓」というものは、時には必要である……はずではなかろうか???

 …そのように考えてしまう、その、訳は…

 

 日本の野球界にはびこる、こてこての根性論的指導者達を向こうに回し、がむしゃらな努力は無駄である、と論破する桑田真澄氏も、その幼少時代、父親からは「無茶苦茶な」特訓を受けたらしい。

 ピッチング練習をしていた時、キャッチャー役の父親は、構えた所にボールがこないと捕球してくれなかった、とテレビの特集番組の中のインタビューで述懐していた。

 …それって、けっこうな“イジメ”レベルの行為ではなかろうかいな^^;;;

 星十徹、と息子達から敬遠されている私でさえ、そこまでの厳しさは滅多に出しません。

 そんなことしたら、ビビってしまって腕が縮こまってしまうだろう。構えた所に投げなかったら捕球してもらえない、となっても、「だめだったら、自分でボールを捕りに行けばいいだけだ」と覚悟を決めてしっかりと腕を振りきって投げられるような意思の強い子どもは何人いるのだろう。

 ウチの息子は、そんなことしたらいじけて泣きべそかいて二度とやろうとしなくなってしまうかもしれない。もしくはふてくされて大喧嘩になるかもしれない。

 私と同い年なので非常に親近感がありなおかつ尊敬している、工藤公康氏も、やはり親父さんが厳しくて、野球が嫌いで嫌いで仕方なかった、と言っていた。

現役力 (PHP新書)

現役力 (PHP新書)

  • 作者: 工藤 公康
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2009/03/14
  • メディア: 新書

 『 … ぼくの父は、「巨人の星」の星一徹張りの頑固者で、ほんとうに不器用な人でした。いまとなっては、あのころの厳しい言葉も愛情から出てきたものなのだと納得できる面もあるのですが、それでも気分屋だったなあと思います。

 父親はそのころ草野球チームでキャッチャーをやっていて、自分の練習のために息子であるぼくにボールを投げさせていたんです。

 言う事を聞かないと殴られますし、父親が構えたところにボールが行かないものなら、すねて「もういい!」とやめてしまうのですから、子どもながらに、ほんとうに困りました。そうなると、工藤家にはどよーんとした空気が流れ、明かりがついているのに真っ暗な雰囲気。 … (中略)

  … 野球が好きとか嫌いとか、そんなことよりも、ぼくの場合はとにかく、高校へ行くには野球しかなかったのです。

 その高校には寮があったので、父親から離れられるという思いもありました。その寮の先輩・後輩の上下関係は相当に厳しかったのですが、父親に殴られるのとくらべれば、楽なもの。理不尽ないじめもなんとも思わなかったなあ…(中略)

 … 練習がキツイと思ったことも一度もなかったですね。なぜなら小学生、中学生のころから父親にやらされていた練習の方が、断然キツかったからです。

 たとえば父親に「外でシャドーピッチングをしてこい」と言われたら、二、三時間は家の中に入れてもらえませんでした。寒い冬に、ジャンパーもなく、ふつうのジャージの上下にTシャツ姿。そんな恰好なのですから、疲れたからといってもちょっとでも休んでいたら、風邪をひいてしまいます。

 だとしたら、どうするか。

 ひたすら動いているしかないんです。身体を冷やさないためには、身体を動かす意外に方法が無いのです…  

 テレビのインタビューでは、なんでも、野球が嫌いで仕方なかったから、できるだけ短時間でうまくなる方法を考え続けた、とおっしゃっていた。結局、それが「効率の良い努力」につながり、ピッチング能力向上に役立ってしまって、200勝をして名球会入りする偉大なピッチャーになるのだから、人生なんてわかりませんなぁ。

 工藤投手の場合、少年時代に受けた「無茶苦茶な特訓」があるからこそ、その輝かしい球歴を得ることができた、と言えるのではないか。

 …だからといって、それじゃ、ウチも、息子に無茶苦茶な特訓を施してやろう、なんて、誰でも同じ真似をして成功するかというと、99%は「間違いなく」失敗するでありましょう?

 その“特訓”に耐えられる肉体とメンタル、それを育む「家庭環境」が、もともと“生まれつき”に全て揃っていたからこそ、工藤投手は素晴らしいピッチャーになれたのでありましょう。全く同じ条件、ということはあり得ないのだから、そのご家庭ご家庭においての“工夫”は必ず必要になってくるはずだ。

 ただ、プロ野球選手になる、しかも、“活躍”する、というレベルは、いわば「究極の身体能力」が求められるのだから、間違いなく“限界ぎりぎり”のトレーニング、身体が「壊れる」寸前までの“特訓”それも、幼き頃からの“積み重ね”というものが絶対要求されるだろう。

 桑田氏は、「がむしゃらな努力は無駄である」というその理想の実現の元、御自身でも少年野球チームをお持ちだそうだが、さて、そのチームから今まで何人、プロ野球選手が出ているのか。もしくは、そこまででなくても、甲子園に出場するチームのレギュラーに何人がなれたのか、もしくは大学野球・社会人野球で活躍するまでに育った選手は何人いらっしゃるのか。

 と、言うと、プロ野球選手にすることが目的では無くて、野球を好きにさせてやることが大事なのではないか、とおっしゃる指導者、保護者の方は多い、だろう。

 それでは、「野球を好きになる」ということは、いったい、どういうことなのか。

 野球を好きになるとは、こういう事だ!とはっきり定義できる方がいらっしゃれば、お聞きしたい。

 いつもいつもチームが「一回戦負け」しかも毎度毎度コールド負け、でもしているような野球をしていても、「いやぁ、爽やかだなぁ。別に勝とうが負けようが関係ないんだ、俺は、野球が楽しいんだ!」と喜べるものなのか。

 勝負事は、勝てば嬉しい、負ければ悔しい。

 勝てる、から、嬉しくなって、勝てるから自信がついて、勝てるから、そのスポーツが益々おもしろくなり、結果、「好き」になっていくものなのではなかろうかと私は想う。

 中学生の頃はバドミントンをやっていたが、バドミントンではなかなか勝てず、正直、おもしろくなかった。それでも高校でもやろうとしたら進学した高校にバドミントン部が無くて、仕方なしに同じ中学校から進学した同級生に誘われるまま、陸上部に入ったがこれまた脚が遅くて長距離も苦手、エントリーできるのが投擲種目しかなかったので円盤投げとやり投げで出たが身体が小さく予選も通過できないありさま。

 ちなみに、ウチの親は、息子の“活動”には、恐ろしいほどに全く無関心であった^^;

 おもしろくねぇなぁ、いつ辞めようかなぁ、と考えていた時、たまたま弓道部の友人が持っていた、「燃えよドラゴン」のビデオを見せられてブルース・リーに一目ぼれ。

 マーシャルアーツに目覚め、中国系拳法の道場の門をくぐり、格闘技を始めたのだが最初の市民大会の演武部門に出場したらなんと6位入賞、学校での運動会も含めて、生まれて初めてスポーツで賞状をもらう事が出来、それが嬉しくて嬉しくてのめり込み、大学でも続け、最終的には学生の大会の最高峰、全日本学生大会で3年生と4年生の時に二年連続で全国6位入賞、そのお陰で推薦で、なんと「世界大会」にまで出場させていただいたのである(予選落ちしたけど…(-_-;)ゞ)。

 あの頃が、身体を動かしている時期としては、まさしく“絶頂”でありましたなぁ。

 大学に行く朝、「今日こそ、救急車で運ばれるかな」「打ちどころが悪くて、死ぬんじゃないかな」という、本気で真面目に【死への恐怖】を覚悟するほどに、拳法部での練習は、それはそれはまさしく、「死ぬほど」苦しかったが、大会で良い成績を出したい、最後の表彰式で、賞状を大会運営責任者から頂きたい、自分の名前を読み上げられて、会場の皆さんから、拍手を受けたい、その一心で、必死に頑張ったものでありました。

 もしもあの時、友人宅で「燃えよドラゴン」のビデオを見せられなかったら、私はいったい、高校卒業後も運動を続けていただろうか。あのまま、マーシャルアーツ系に足を踏み入れなければ、失意のままに高校陸上部の活動を終え、大学生になってからも、体育会に所属してまで身体を鍛えようなどとまでは絶対思わなかっただろう。

 それに、高校の後半から、陸上部と平行して始めた中国系拳法の道場通いも、最初の大会で賞状を貰えるような好成績を収め(小さい大会だったけど)、感動を覚えなかったとしたら、大学までやろうと思ったかなぁ? …う~ん… おそらく、続けなかったかもしれない、と想うのだ。

 

 野球においても、いつも空振り三振、ばかりではいくら「良いスイングだったよ、おまえ、上手になってるよ」と褒めてやったって、心に響くものなのだろうか。自分のエラーで決勝点、試合に負けても「おまえは、良く頑張ったぞ!仕方ないよ」と取り繕ってみても、その子の心に刻まれた心の傷は癒えるのか?

 私は、そのスポーツを好きにさせてやれるいちばん最高の方法は、自分のファインプレイでチームを勝利に導くようにさせること、ではないのかと言いたいのだ。テニスや卓球であれば、相手のウィニング・ショットを体勢を崩しながらも打ち返し、逆エースを取る! そんな、“ファインプレイ”ができたから、握りこぶしを震わせ、ウオォっと雄叫びをあげることができるのだ。

 そういう、“勝つための技術”をしっかりと教えてやれない指導者ほど、「勝ち負けには関係なく、そのスポーツを好きにさせてやることができるはずだ」、の、理想論、に、逃げ込もうとしがちなのではないか。

 そして、結局は「本人の自覚に任せる」という文言が増え始め、最終的には「本人にやる気がなかった」ということで、“自分の指導方法は棚に上げて、子供への責任転嫁”をしてしまうのではなかろうか。

 理想、というものは、実現が非常に難しいモノであるから、“理想”なのだ。

 “勝つ技術”すら教えることができない指導者が、そんな「理想的な指導」をしっかりできるものなのだろうか。

 炎天下、真夏の県大会決勝戦。1対0で勝っている試合の最終回のマウンド、エラーと不運なイレギュラーヒットも重なり、2アウト満塁のピンチ、フルカウント!

 自分を信じて、腕を振り、渾身のストレートをアウトローいっぱいに投げ込み、空振り三振、ゲームセット、甲子園決定!!

 「うおおぉっっ!!」と雄叫びをあげる。

 その、膝が震えてくるような極限の「緊張感」が、これ以上ない最高の結果になる「開放感」の“快感”が、脳内に「ドーパミン」をドパッとフルに充満させてくれるのだ。その強烈な“成功体験の快感”が更に「やる気」を「活性化」させて、益々そのスポーツにのめり込んでいくようになるのだ。

 そういう快感を持たせることができないというのに、「褒めておだてて」やること“だけ”で、そのスポーツを好きにさせましょう、という事には、ちとばかり無理があるんじゃないでしょうか、と言いたいのであります。

 これを、「勝利至上主義」と受け取られる方とは、多分一生、話は平行線をたどるばかりでありましょう。

 そら、中には、怒鳴り声もあげず、冷たい扱いもせずして、子供達を褒めて認めて、活き活きと野球を好きにさせてやり野球もうまくさせてやりチームも勝てるようになる、という、まさしく“理想”の指導ができる指導者も広い日本、いらっしゃるとは想うが、そんな“理想の指導者”ばかりいたら、逆にその方が私はちょっとうさんくさいような気がする。

 “無い物ねだり”をしてもしょうがない。

 今現在そこにある環境で、子供達に取って最善の状況を作ってやれるように精一杯、考えるしかない、工夫するしかない、のである。

 それに、学童野球、中学野球とおだやかな指導者に育てられ、ぬくぬくと成長してきたが、本格的に野球に打ち込もうと硬式の高校野球に進んだが、“環境”ががらりと変わり、それこそ鬼のような監督だったりしたら、「怒鳴られる」事に何の免疫も持っていなかった選手では、メンタル的についていけなくなってしまう、という恐れもある。

 選手が“バーンアウト”してから、指導者が悪い、子どもが弱い、等々、嘆いてみても手遅れでありましょう。

 上に進めば進むほど、一人一人の子供達の事を気に掛けて指導する、なんて気を利かせてくれる余裕あるチームは、よほどメンバーの少ない弱小チームぐらいしか、無くなってくると想うのだ。

 強豪チームになればなるほど、“サバイバル”である。

 強豪チームは、メンバーも多い、しかも、野球の技術レベルも高く、気持ちも強い選手ばかりだ。ついてこれない奴は、置いていかれるだけ、というケースが多くなってくるんじゃなかろうか。

 「指導の仕方は色々あるんだよ」という事を一通り教えておいてやることも、ある意味、子供達には“愛情”であるのではなかろうか、と想うのであります。

 それは、別に野球に限った話では無く、社会に出れば、それこそ、「自分ひとりの力で」活きていかなければならないのだ。社会に出るまで「なるべくストレスを取り除いてやって、明るく気楽にわがままに伸び伸びと」育てておきながら、社会に出たとたんに「さぁ、これからはおまえ1人で生きていくんだよ」と放りだすのか? それともまさか、社会に出てからも手とり足とり、世話を焼き続けるのか?

 息子さんより、長生きできますか。

 

 とはいえ、様々な指導があるとは想うがなにより一番大事なのは、間違い無く、「やる本人」の気持ち。

 最も大事なことは、「野球が好き」である、という気持ちを育むことであるとは当然思ってはいるのです。んで、私の場合、「好きになる」ということは、そのプレイを通して「心地よさ」を感じる事ではなかろうか、と考えている、という事です。

 単純に例えると、私は、「ファインプレイ」をして、「いい気分」になれる機会が無いと、そのスポーツを心の底から本当に“好きになる機会を得られない”ままで終わってしまう恐れがあるんじゃないか、と危惧するわけです。

 それこそ、“理想は”、子どもが自分自身で“最初に”幸運にもファインプレイをすることができて、“快感”を覚えてくれて、「勝手に」そのスポーツにのめり込んでくれるのが最高です。

 でも、運悪く、最初に“失敗”してしまって、嫌な感覚を体験してしまったプレーヤーは、どうすればよいのか。

 その時点で、「野球を好きになること」を、あきらめなければいけないのか。そんなことは無い。猛練習で技術を鍛え、馬鹿にしていたチームメイトを見返すことはいくらでもできるのだ。

 そこで、“軌道修正”してやるのが、「良い指導者」のあり方ではなかろうか。そして、その“軌道修正”をどうするかというと、これはもう、「努力をさせる」しか、ないはず。  

 「ファインプレイ」ができるようになる為には、どうすれば良いのか。それも、「チームを勝利に導く」ような、ファイン・プレイを。

 というとそれはもう、練習するしか、ないんです。

 しかも、“ハードなトレーニング”を積まなければ、チームの勝利に貢献できるパフォーマンスを演じることができる選手にはなれない。相手チームの選手の練習量よりも、上回るほどの練習をしなければ、その上を行く事は当然できないのである。

 そして、「ハード」なトレーニングは、「辛い」、のだ。

 その辛い部分を端折って、「誰にでも称賛されるアスリート」に自分の息子・娘をしてくださいね、と指導者に願うのは「虫の良い話」であると想うのだ。

 その為には、大前提としてやはり、普段から「メンタル」の部分を強化しておかないと、とても「ハード」な練習にはついてこれなくなってしまう。つまり、“根性”が必要であろう、と言いたいのである。

 根性が必要なハードな練習に、「自主的に」取り組んでくれるのがもちろん「最高」なんだが、そうそう、自主的に取り組む息子ばっかりだったら、世の中の親御さん達の苦労はほとんどなくなってしまうだろう。

 「勉強しろよ」と一言も言わなくても、自分から“勝手に”“進んで”勉強し始めるお子さんをお持ちのご家庭は、全世帯の何%ぐらいでありましょうか。

 工藤公康氏のお父さんが、物わかりの良いおだやかな人物で、「練習しろ」などと一言も強要する様な方でなかったとしたら、224勝の名球界入り投手が存在していたか。

 構えたミットにボールがこなかったら、捕球してくれないような厳しいお父さんでなかったら、甲子園最多勝、ジャイアンツのエースナンバーを背負う、「桑田真澄」というピッチャーが生まれていたのか。

 野村克也氏は、お父さんを戦争で亡くし、お母さんも病弱で、新聞配達をして家賃を稼ぐような貧しい生活だったそうだ。誰も、野球を練習しろ、なんて人はいなかったと想うが、その極貧生活から抜け出したい、という強い思いが、ある意味“強制的に”プロ野球選手になって金持ちになという目的で練習に駆り立てた、と言えるのではなかろうか。

 桑田氏は、「がむしゃらな努力は無駄である」とおっしゃるが、PL時代、毎日50回の素振りとシャドウピッチングは「ほとんど」欠かさなかったそうである。

 1年365日、『ほとんど』、で、あるぞ!

 毎日50回、そら、おそらくたった10分もかからず終わってしまう『努力』であろうが、それを365日続けるという事は、1日10分間の努力であると仮定して、時間にして3,650分、約60時間、丸々二日間と半日、不眠不休で食事もとらず、ただ延々とシャドウピッチングを、または、素振りをし続けたことになるのである。まぁ、一日8時間睡眠を取り、食事やお風呂にも入ったとして、一日その練習を8時間するという事にしたとしても、「シャドウピッチングだけ」を、1週間以上続ける計算になるのだ!

 一年間に一度とはいえ、一日8時間、同じ練習を、1週間も続けられるか!?

 シャドウピッチングだけで、かえって肩肘をぶっ壊してしまうかもしれません^^;

 必ず「毎日」欠かさず10分間の努力を続ける、という事が、実はどれほど大変なことであるのか、そう考えてみると良く分かると想いませんか。

 しかも桑田氏は、それを高校生時代の3年間、続けたとおっしゃっているのだ。

 「三日坊主」という言葉もあるように、「継続は力なり」なのだ。

 すさまじい「精神力」が、“継続すること”には必要とされるのだ。効率の良い努力、ということを真剣に考え続け実行する、ということも、実は非常に大変なことであるのだ。

 ふつーの人なら、たぶん、1週間、8時間ぶっ続けのシャドーピッチングやれ!と言われるより、3年間、夕飯後、毎日10分間“絶対に”シャドーピッチングをやれ!! と指示されるほうが間違いなく出来ない結果になると想う。私なら、絶対、1週間8時間ぶっ続けのシャドーピッチングの指示の方が守れそうな気がする(そら、辛いだろうけど…)

 ハードなトレーニングを、“自主的に“するように教育・指導する、それが理想です。

 そこに至るまでの方策として、褒める、おだてる、気付かせる、という方法が理想だとは想いますが、気付かない奴、やろうとしない奴は、ある程度“強制的”にでも、やらせてやる、というケースも時には必要ではないのかなぁ、とも想うんですよ。ほっといても、自分で気付く奴なら、最初っから自分でやり始めようとするはずである。

 ただ、強制的にやらせることは、もちろん、【必要悪】だとは、思っておりますので、念のため。

 「褒める」のが良いのか。

 「放任して、勝手に気付かせる」のが良いのか。

 「ほっとくしかない」のか。

 「怒鳴りつけてもやらせる」のが、結局は本人の為になるのか?

 「“エサ”で釣る」のが、良いのかな?^^;??

 手塚一志氏は、その著書の中で「褒めず、教えず、指導せず」とおっしゃっております。ただ、「認めてやれば良い」と。

心に火をつけるkidsコーチング 投手編

心に火をつけるkidsコーチング 投手編

  • 作者: 手塚 一志
  • 出版社/メーカー: ベースボールマガジン社
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 単行本

 確かに、この「認めてやる」という事は大事であると想います。

 ちょっとだけ、「大人扱い」をしてあげると、確かに、子どもは喜ぶような感じがします。

 しかし、「認めること」が無ければどうするか?

 でも、どこかには「褒められる事」「あぁ、良い事だな、いいな」と“認めてやれる”ことが必ずあるはずです。そこを良く観察できるかどうかが、「良い指導者」か、「ただの指導者」かの違いであるような気がします。

 褒める指導にしろ、放任主義にしろ、怒鳴りつけるにしろ、『選手を認めてやる事』は、絶対間違いなく必要な指導方法だと想います。

 ただ、認める、という事を勘違いして、「“褒め”さえすれば良い」と想っている指導者・保護者の方もいらっしゃるのではないか、という事を言いたいのですヨ。

 この「心に火をつけるキッズコーチング」という本にも書いてありましたが、“褒められるようなプレイでは無い”にもかかわらず、どんなプレイでもただいいよいいよと「褒めて」やるだけでは、おそらく、子供達も「このおっさん、俺のことをちゃんと見ていてくれてないな」としか感じてもらえないと想うんですよ。

 良いところは「認め」、悪いところは「叱る」 そのメリハリ、バランスが大事なのではないかなぁ、と強く想う今日この頃であります。

 

 しかし、子育ては、わかりませんなぁ。“正解”というものは、ありません。何事も、結果論でございます。

 野球が好きだから、うまくなるのか、野球がうまくなっていくから、本当に好きになるのか?

 どちらも“正解”であり、ただの“幸運”だった、と言えるのかもしれない。

 伸び伸びやらせても、「伸びない」奴は伸びないだろうし、厳しくしっかりとした指導を施して、野球はうまくなったとしても、「燃え尽きて」リタイヤする奴は、する。

 となると、やはり、一番大事なのは、幼き頃より【根性】を養成しておいてやることじゃ、ないんかなぁ。どうだろう。 

 ただ、ひとつだけいえることは、野球に限らず何事も、「真摯な態度」で取り組ませる、ということであるはず。

 それだけは、揺るがしてはいけない子供に対する親としての“指導”なのではないでしょうか。

 …うん。

 野球やるのは子供じゃないか、親がそんなにむきになっちゃあかん、という人もいるけれど、私は、「中途半端は何も残らない」と想うのだ。

 何も残らないどころか、途中でやめるまでに費やした時間、費用、体力全てが「無駄になる」と想うのだ。

 つまり、途中で止めることは「マイナス」になってしまうと想う。

 人生、なにかチャレンジしてみて、これは「無駄だった」と気付くだけでも「無駄では無い」と言えるとは想うが、途中で止めてしまう、結果を確認せずに終えてしまう、ということは、私は間違いなく、「ただの、無駄」であると想うのだ。

 やるなら、とことん。

 やるだけやってみて、ダメだったら、スパッとあきらめて気分転換、また違う事にチャレンジし始めれば良いのだ。

 とことんやってみて、「これが、限界」と、己の心から逃げずに、自分ではっきりと認識できるようになれば、私はそれがどのような“頂上”だったとしても、自分自身に対して、「確信」が持てるのではないか。

 この場合の「確信」とは、「かな、自」のことである。

 富士山の頂上から、御来光を見ようと9合目まで登ったけど、息は苦しいし、高山病で頭も痛い、脚も痛いとあまりの苦しさにそこで止めて下山してしまったら、それからの人生、その事を後悔ばかりしている様な気がします。なんであそこで辞めちゃったんだろう、と。そして、途中で辞めた言い訳を自分にし続けながら残りの人生、生き続けてしまうような気がするんです。

 たとえ頂上まで登ったとしても、もしかしたら悪天候で朝日は観ることができなかったかもしれない。富士登山の目標である、「御来光」は拝めなかった。

 だから、チャレンジしない方が良かったか?

 でも、天候は、自分ではどうしようもない事、神様でもない限り、お天気がどうなるかなんてわからないし、どうしようもない事なのである。それでも、自分の力で何とかなるところ、頂上まではしっかりと自分の脚で登った。自分で、やれるだけの事はやったんだ。

 間違いなく、自分ができる範囲、「限界」までは頑張った、それは、自分自身に“揺るがない自信”を与えてくれるのではないか。

 人生、そういう“モノ”が、とっても大事なんじゃないのかなぁ、と想うんですよ。

 そういう「自信」があれば、どんなことにもチャレンジできるはずだと。

 

 なんか、今回は「締り」の無い文章になっちゃったかなぁ(^_^;)ゞ

 こういう問題は、結論なんかでないのかもしれませんね。


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