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スポーツ哲学 [メンタル]

 スポーツ選手は、哲学を持たなければならない。

 でないと、ブレる。

 それは、信仰心のようなものだ。

 信仰心の無い人間は、イザという時に弱くなる、という。

 アスリートのプレイにおいても、やはり、「頼れる哲学」が無いと、球際で弱くなって腰砕けになりそうな気がするのだ。

 その訳は…

 

 

 

 新年、明けましておめでとうございます。

 2012年最初の記事は、どんな内容にしようかなぁと悩んでいたんですが、私の「ポリシー」というか、「信念」のようなものを表現してみようかと…

 

 冒頭の話に戻りますが、スポーツ選手にとって、なにより大事なのはメンタル・タフネス。

 いくら100点満点のフィジカル能力を両親から授かっていても、メンタルの強さが60点では、発揮されるアスリート能力も60点だろう。 

 だからこれだけメンタルトレーニングの書籍が発売されているのだろう…が。

 精神力、というものは、生まれてからそれまでの人生の中での様々な経験の積み重ねで構築されてきたものであり、おそらく本を一冊読んだぐらいですぐに強くなったりするわけもない。感動したからってすぐに性格がころりと変わったりしたなら、逆に怖いだろう。

 たぶん、それまで眼を覚まして生活していた時間と同じくらいの時間がかかるほどの読書をしないと、性格なんてもんは根本的に変わりはしないと想う。

 しかし、あるきっかけひとつでがらりとプレイスタイルが変わったりするプレーヤーがいる、というのも事実のようだ。

 それは、メンタルが強化された、というより、信じるモノが変わった、という事ではないのだろうか。

 楽天名誉監督の野村克也氏は、考え方が変われば、行動が変わる、行動が変われば、習慣が変わる、習慣が変われば、人生が変わる、とおっしゃった。

 数ある野村語録の中で、一番好きな言葉である(っつっても、なかなか変わらないんだけどねぇ、考え方…)。

 最近では、楽天イーグルスにおいて、今年が最後かな、という背水の陣でシーズンに臨んでいた山崎武司選手が、本塁打と打点の二つのタイトルを獲る大活躍をした話が象徴的でありましょう。

 引退を覚悟していた選手が二冠王になるという、野村再生工場の面目躍如な出来事が記憶に鮮明に新しい。

 あるきっかけを境に、アスリートが豹変したように活躍できるようになったのは、メンタルが強くなった…というより、“考え方が変わった”と表現した方が良いでありましょう。性格と同じく、メンタル自体はそうそう変わらないはずだ。

 信じる“モノ”が変わったのだ。

 つまり、そのスポーツに対する、自分なりの“前向きな”哲学を持った、という瞬間なのではないだろうか。

 人間、“後ろ向きな”哲学(?)は持ちやすいんだが、なかなか前向きな哲学は持ちにくい(^_^;)ゞ

 何を、信じるか。

 何のために、そのスポーツをするのか。

 何が本当に大切なものなのか。

 それに、気付いたから、変われたのだろう。

 だから、という訳ではないが、ただのスポーツ選手が、一流のアスリートと呼ばれる存在になるためには哲学をもたねばならないのではないか、と言いたいのである。

 人生でも、やはりおなじように、どのように生きるか、という哲学を持たねばならない。

 なんのために、活きるのか。そして、なんのためにスポーツをするのか。

 なんでスポーツをするかといえば、シンプルに考えれば、プロでもアマチュアでも、人生を豊かにするためだろう。

 そのスポーツをやればやるほど、絶望してしまうのなら、それは本末転倒である。

 「燃え尽き症候群」なんてアスリートの卵を追いこんでしまっていないか、大人の指導者が。

 そんな駄目な指導者、馬鹿の親を糾弾しているのがこの本。

少年スポーツ ダメな指導者 バカな親

少年スポーツ ダメな指導者 バカな親

  • 作者: 永井 洋一
  • 出版社/メーカー: 合同出版
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本

 

 本屋でこの本の背表紙を読み、「お、俺のことか!?」と、ビクッとしてあわててこの本を手にした覚えがある^^;

 私も、傍から見れば「野球馬鹿親父」と思われているだろう。

 子供が家にいるときは、とことん野球の練習には付き合うし、ありとあらゆる野球上達法を研究しまくって、息子達に実践させている。

 もちろん、私自身が野球好き、ということもあるのだが、青春時代に競技野球経験は全く無い、ズブのど素人である。

 が、息子が野球やりたい、と、学童野球部に入部して、その当時の監督さんのあまりに非科学的で工夫の無い、単調な練習方法に疑問を感じ、その動作ができるための具体的な指導も無いのに「そのぐらい、なんでできないんだ!」という怒鳴り声にあきれ果て、一念発起、子供達のために、野球が“ちゃんと”上手になる方法をしっかり勉強しようとして、指導者の道へ踏み出したのがもともとのきっかけである。

 高校野球の監督、シニアの監督など、いろいろなレベルでの野球部の「監督さん」はいるだろうが、なにより一番重要なのは、「野球の入り口のチームを任される監督」だろうと私は考える。

 入り口で、「野球はつらいぞ、苦しいぞ、つまらないぞ」と教えられたら、どうだろう、そこからずっと野球を頑張ろうと考える根性のある子供は、何人ぐらいいるのだろうか。

 具体的には、小学校単位で構成する、軟式学童野球部を任される人であったり、硬式のリトルチームを任される方であったりするだろう。

 そこで、「どんな野球」を教えるか、という事が、野球少年達において一番重要な事なのだ。

 そして、もっともっと大事なのは、野球を通じて、「どんな事を教えるか」という事だ。

 保護者の中には、楽しくやれば、野球を好きになる、という“妄想”を抱いている方がいらっしゃる。

 声を荒げることもせず、よいしょよいしょで、褒めまくっていれば、「野球を好きになる」、という。

 大間違いだ。

 スポーツは、「勝利する」から、おもしろくなるのだ。負け続けなのに、「おまえら、うまくなったよ、頑張ったぞ」と言われても、素直に信じれる訳は無い。子供も馬鹿ではないのだ。

 良く、「敗戦から学ぶ」という人がいる。

 「負け犬の遠吠え」にならぬよう、注意しなければいけない。

 敗戦から学ぶことは、私は『悔しさ』以外の何物でもないはずだと想っている。

 次は、こんな思いをしたくない、絶対、勝つ! という、“気持ち”を敗戦から学ぶのだ。

 せっかく才能があるのに、良い素質を持っているのに、ひたむきに努力しようとせずおちゃらけている奴は、私はそいつのためを想って、心底「怒鳴りつけてやる」のが、愛情だと想っている。のに、親が「ひどいわね、あんな事言わなくてもいいのにね、気にしなくてもいいのよ~」なんて子供にぬかしたとしたら、全く逆効果、指導者の言う事は聞かなくなるだろうし、この子も本当の活躍をできぬまま、アマチュア野球を卒業し、“ただの”人として、そんじょそこらの社会人として一生を終えるようになるのだろう。

 また、最上級生だというのに、後輩たちが先輩の背中を見て練習しているというのに、不真面目に真摯に取り組もうとしないことにより、チーム全体の雰囲気がだらけてしまう。私は、こういう『先輩』にも容赦はしなかった。そいつ1人の問題ではなく、チーム全体の問題になってしまうからだ。たとえそいつを投げさせないと、勝てないかもしれないと想っても、先発から外し、他のポジションに回したこともある。

 チームのためもあるが、動きが良く、いろんなプレイもそつなくこなせる程のプレイヤーであるメンバーが、後輩、チーム全体に与える影響というものを真剣に考えて欲しいと想うからである。どういう目で見られているか、期待されているかを、そいつ自身に“気がついて”欲しいからなのである。

 

 …だからといって、ただ、チームが「勝てばいい」のか?

 では、「勝つ」ことによって、人は、何を得られるのか?

 最初は、相手に「勝つ」、でも、最終的には「己に克つ」という事が目的であろう。

 強い相手に勝つためには、相手よりも練習をしなければならない。相手よりも長い時間、厳しい練習を積まねばならない。それだけ、自分の時間をより多く練習に捧げねばならない。

 それは、辛いことである。いくら野球が好きだからって、たまには遊びたくなるだろうし、面倒くさくなる時もあるだろう。それをこらえて、今日も素振りを繰り返す。「楽(ラク)をしたい」という想いを押さえ、辛い練習に我が身を投じる度合いに応じて、スポーツスキルの向上が見込めるのだ、という事に対しては、どんな理想論者も疑問は持たないだろう。

 そして、良いプレイをする為には、グラウンドがデコボコしていたらできない。だから、グラウンド整備をする。道具が汚れていたり、壊れていても気持ち良く野球ができない。だから、手入れをする。教えてくれる指導者がいる、支えてくれる保護者がいる、だから、感謝の気持ちを持つ。

 野球をさせてくれてありがとう、と。

 感謝の気持ちを持てば、自然と挨拶もしたくなるし、返事もしっかりとしようと想う。

 これが、何より一番大事なことなはずだ。

 

 感謝の気持ちを表現するのは、今時の子は照れる。恥ずかしい。道具を手入れするのは面倒くさい。壊れたら新しいのを買ってもらおう、グラウンド整備も、練習で疲れた後にするのは、けっこう辛い。大人がやってくれりゃいいじゃん…

 そういう“弱い気持ち”“面倒くさい事を避ける気持ち”に克てなければ、当然、うまくもならない。つまり、「怠けたい」という自分の欲望に「勝て」なければ、結局、相手にも勝てないわけだ。

 「己に克て!」というのは、実はものすごく難しい事なのだ。ので、“己”を“相手チーム”に置き換え“仮想敵”を作ることにより、チャレンジしやすくするのだ。戦国時代は、「敵」に負ければ「死」が待っているわけだ。どうしても勝たねばならない。死にたくなければ。しかし、現在では、日本の様な平和な国では特に、自分の生命まで脅かすような経験ができない。つまり「敵」はいない、にも関わらず、スポーツという様式で「闘い」という形を残し、人為的に「敵」を作ろうとするのは、それが、自分に克とうとする自己鍛錬につながるものになり得るから、と考えるからなのではないかと私は想う。

 相手に勝つ、ライバルに勝つ、それは、最終的には「己に克つ」ことができなければ達成できない。

 スポーツの試合で相手に勝つ、というやりかたで、実は己を鍛えているのである。それが非常に効果的に実現しやすいので、未だにスポーツとして現代に残り、たとえ自分ではそのスポーツをしていなくても、アスリートたちの動きをテレビ観戦などでバーチャル体験することによって、“似たような感覚”を手に入れたくなるのだろう。

 しかし、それはあくまで「仮想体験」であって、実体験ではない。ので、「感動」をそのままにしておいて、なんの行動も起こそうとしないのならばこれまた全く無意味なモノでもある。感動したなら、その感動のままに、自分でもアクションを起こしましょう。

 

 それにしても、勝てばよい、結果さえ良ければ良い、とまでしか考えていない指導者、保護者が多くないか?

 大事なのは、【己に克つ】ことにつなげることなのであって、相手に勝ちさえすれば良いわけではないのだ。たとえ、プロ野球選手になれなくとも、その“目標”に向かって自分は最大限の努力をした。これ以上はできないところまで頑張った。だから、“自信”が生まれるのではなかろうか。そうすれば、“別のステージ”へ登ろうというふんぎりがつく。

 

 優勝したとか、決勝戦まで残れた、準優勝したから俺はいい指導をしたなどと自慢を良くする野球経験のあるコーチがいたとする。

 しかし、そのチームの練習風景を観れば、練習だからとはいえ、フリーバッティングで、バッターが構えているのに、ベースに片足を乗せて腕を組んで構えようとしない内野手、キャッチャーが、「声出して!」と叫んでも声を返さないメンバーばかり。当然、挨拶や返事もまともに出来やしない。

 このような有様で、試合に勝ったからってどのような意味があると言うのか。

 野球が上手でちやほやされるのは、プロ野球か、せいぜい社会人野球の世界だけだ。一般社会では、時速150kmのストレートが投げられるより、場外ホームランがかっ飛ばせるパワーより、挨拶がきちんとできる、返事がしっかりしている、気がきく、視えないところでもきちんと仕事をしようとする、少しでも効率よく仕事をこなそうと工夫する、などという“性能”の方がよっぽど「評価される」のだ。

 なのに、数年間も部活動をしながら、そういう能力を身につけられなかったとしたら、私は、それこそ「結果が出なかった活動」なのではないか、と言いたいのである。

 楽しくやってるんだから、“良い部活動だ”という保護者もいる。これまた、私は「楽しい」という基準をはき違えていると想っている。

 楽(タノ)しい、ことと楽(ラク)することを勘違いしている。

 もっと厳しくやった方が良い、というと、「どこまで(たかが)“部活動”に求めてるんですか?」と、さも(自分の息子をプロ野球選手にでもしようとでも想っているのか?)とでもいいたげになかば呆れ顔に嘲笑する保護者もいる。

 違う、違う。「どこまで」求めているんじゃなくて、「これ以上、“崩さないで”ほしい」という事なのであるが、この様なことさえ理解できない方とは、おそらく、最後まで話は噛み合わないでありましょうなぁ。

 そして、「自分のお陰」を自慢したがる指導者ほど、チームが勝てなかったりすると、「あの試合は監督(の戦術)が悪いんだよ」「四番があそこで三振じゃ、どんなことしたって勝てねぇよなぁ」なんて、敗戦の原因だけは自分のせいではない、と責任回避する方が多くないですか。

 こういう話は、“中途半端な”野球経験のある指導者に良くある話ではなかろうかと、7年以上に及ぶ指導者経験、また、次男の中学野球の練習風景を眺め続けてきてそう想う。

 勝ったのが俺様のお陰なら、負けたのも自分のせいだと言うべきだ。素晴らしい野球経験がお有りなら、野球経験のない顧問の教師をしっかり指導してあげれば良い、四番が大事なところで三振する程度の打撃練習しかさせてやれなかったんだから、それこそ、“指導者のせい”なのだ!「4番打者」が打てないのは。

 違いますか。

 それができない、と言うのであれば、たまたま勝ったからって、その事“だけ”での自慢もするな、という事である。

 俺が「しっかりとした野球を教えてやる」、と言う。

 何が、しっかりした野球なのか?

 野球経験がある、とは、いったい、何なのか。

 名選手必ずしも名監督ならず、という言葉があるが、私は、「野球経験者だからと言って、良い指導者とは限らない」といいたい。

 野球経験者=良い指導者、という図式は、もう通用しない時代である。野球経験があろうが無かろうが、「良い指導」ができるかできないかは全く別問題なのだ。

 しかし、野球未経験者の保護者が何を言っても、野球経験者には“殺し文句”がある。

 「(未経験者の)おまえに、(野球の)なにがわかるんだ?」

 というものだが、そういう方ほど、ただ“経験”だけでの指導しかできず、新しい理論、新しいトレーニング方法などを知ろうとする努力をしない方が多い。

 学童野球なら、半端な野球経験者より、勉強熱心な素人さんの方がよっぽど上手に教えられる方が多いですよ、とおっしゃる“しっかりとした”野球経験をお持ちの方もいらっしゃる。私は、このような事を言える「野球経験者コーチ」のいるチームにこそ、我が子を預けたい。

 研究熱心な野球素人コーチさん、もっと、自信を持って行動しましょう。

 …そのかわり、しっかりとした“理論武装”はしていかないと、やぶへびになりかねませんし、本を読んだだけの、理論の“受け売り”だけでは説得力“0(ゼロ)”です。

 実際に、自分の身で実証してみせましょう。それができないというのであれば、文句も言うべきではありません。まずは、自分の息子をしっかりとさせてから、他人の息子のプレイ批評をすべきです。チームの足を引っ張っているのは、実は自分の息子さんだったりしませんか??(^_^;)ゞ

 

 「指導者」こそ、確たる信念、「哲学」を持たなければならない。

 哲学を持たない指導者に教わった選手が、「哲学」を持てるはずが無いのだ。

 全国の野球指導者の皆様方、子供達に、野球を通じて「何を」教えたいのか。「内輪の仲間」“だけ”に自慢して自己満足に浸っているだけでなく、世間一般、誰にでもしっかりと主張できる、誇れる「哲学」を持っておられますでしょうか。そして、そのような“指導”を、実際にされていらっしゃるでしょうか。

 新年冒頭の記事を投稿するに当たり、私がなぜこのようなブログを開設したのかの“信念”を知っていただきたく、今回はこのような内容でアップしたのであります。

 何を信じるか。

 子供達に、どこの世界に進んでも通用する、確たる“前向きな哲学”を持たせたい。

 私は、このブログの中で、本当の“健全な野球”というものを究明していきたいと考えております。

 今年も、よろしくお願いいたしますm(__)m


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☆めぐみん☆

信念を持ってブログを書いているって、
素敵ですね!
私はただなんとなく日常をアップしているだけなので、
ちょっと恥ずかしいです。

スポーツに関わらず、
何事においても、子供のころの指導者・先生は
大事ですよね!
場合によっては、
その子の本来持っているすばらしい才能も、
伸ばせずつぶすこともあると思います。

親も同じで、
うちの子はまだまだ小さいですが、
何か興味のあるものができたとき、
しっかりとサポートしていきたいなと考えています。

親の私がまだまだ未熟なので、
葛藤の毎日ですが・・・(汗)

野球が特別好きというわけではないのですが、
いろいろ参考になることがあるので、
時々お邪魔しています。
今年もよろしくお願いします。
by ☆めぐみん☆ (2012-01-05 12:03) 

菜月

永井洋一さんは、確か、どこかでコラムを読んだことがある気がします。すごく買いたくなるタイトルですね^^; でも、我慢して借りよっと。

私はメンタルがすごく弱いので、ドキッとしました。
by 菜月 (2012-01-05 20:07) 

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